横浜の杉浦裕樹さんの、実に幅広く徹底して具体的な数々の実践。それに刺激されて、「そっちがそうならオレタチは......」と腰を浮かせるようにしてパネル同士の議論が始まる。進行役としては、熱い実践者たちの立ち上がりの早さを頼もしく思いつつ、アリーナの仕切りは難しいことになりはすまいかと恐れもする。
経済規模、人口、ブランド力、東京との距離。三都物語よろしく、横浜――仙台――函館とならべる補助線を引いてみる。「めざせ横浜」ではなく、自らの姿を冷静に評価してみる意見が続く。二都市を対置するだけでは見えなかった問題が、第三の都市を置くことによって、よく見えるようになったのではなかったか。
はからずも「アイデンティティ」が議論のキーワードとなった。「仙台らしさ」はアプリオリにあるのではない。政宗、牛タン、ササニシキ、指折ってもすぐに尽きてしまうような、紋切り型の「アイデンティティ」に飛びついてしまうことの危険性も指摘された。
互いによく似た、しかし似て非なる人々の水平のつながりを作りだすことの価値は、彼らのアイデンティティを動的に組み換えうることにある。上司と、部下と、顧客と、取引先と......固定的な二者関係における対峙の構図に嵌り込んでいると、自分の姿も固定してしまう。だが、ほんの少しずれた位置に第三、第四の鏡があるならば、映りうる姿は飛躍的に増える。新しいプレイヤーがもたらす新しい構図は、そこにいたプレイヤーに新しいアイデンティティを与える。
普通の仕事では回避するに決まっている「イバラの道」を、異業種のクリエイターとの刺激的な協働においては、あえて自ら作り出して進もうとすることがある、と鹿野さんが言われた。簡単に終わりにもできるのに凝る。締切が迫っているのにやりなおす。実績がない方のやり方を選ぶ。つい、そうしてしまう。そうしてしまう時にだけ、思い掛けない結果が生まれることを経験的に知っているからこそ、あえて、そうするのである。
こうした冒険は、ハレの場だからやれる。失敗が許され、逸脱がむしろ期待されている場にこそ、クリエイティビティは産出される。それはプロジェクトの場にほかならない。
"project" は語源に則して「投企」と訳される。すなわち「企てて投げること」である。"project"の語源は、ラテン語の"proicere"で、前方(pro)に投げる(icere)という意味を持つ。前に投げること、が転じて、前方に投影すること、投げかけること、未来に向けて企てること、すなわち計画や事業を意味するようになった。
投げる、というのは極めて高度で複雑な行為である。モノを投げることのできる動物はごく限られている。まず動作そのものが不自然で難しい。さらに想像力が必要である。闇雲に放り投げるのは簡単だけれども、運動している獲物に命中させるべく武器を投げつけるためには、獲物の運動の軌跡と投射物の弾道が一致する時空上の一点を正確に予測できなければならない。そしてなによりも、勇気が要る。投げると手元には武器がなくなってしまうのだから。そのリスクをあえて負う者によってだけ、プロジェクトは遂行される。
「イバラの道」をあえて進むことによって、我が身の丈と動きの癖を知り、痛みを知り、喜びを知る。ハレの場としてのプロジェクトを生きること。その経験の蓄積がアイデンティティを育てる。このような、プロジェクトを通じて獲得されるアイデンティティを、従来の地縁的・血縁的アイデンティティに対して、プロジェクト・アイデンティティと呼ぶ。
だとすれば、クリエイティブ・シティとは、プロジェクト・アイデンティティの培地として機能する都市のことをいうのではないか。そのためには都市は、人々がクリエイティブであろうとすること、リスクをとってプロジェクトを行おうとすることが許される、寛容な場所になっていくことが必要だ。しかし、寛容であることと無関心であることとは違う。クリエイティブであろうとする人々の能動的な相互作用によって、我が事でも他人事でもない複数形の「自分たち事」としてのプロジェクトが、絶えることなく生起される場所をめざして、クリエイティブコミュニティを育てていかなくてはならないだろう。
(08/03/30 公開)